けんこうゆうりょう育児日記

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zoom RSS ベートーベン

<<   作成日時 : 2006/01/19 10:58   >>

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 ベートーベン、「運命」や年末になるとよく聞く、第九交響曲「合唱」を作曲した人物です。

 彼のことは、知らない人は少ないと思います。でも、彼の人生について知っている人は、曲自体を知っているより少ないと思うので、あえて紹介したいと思います。

 1770年12月16日、ドイツのボンに生まれました。
 彼の家は、音楽一家で彼のおじいさんはお城の合唱団やオーケストラを指揮する楽長で、生まれた頃は裕福な生活をしていました。しかし、おじいさんが亡くなってからは、音楽家でお酒の好きなお父さんの収入は、お酒につぎ込まれ貧乏な生活になってしまいました。

 でも、お父さんはベートーベンの音楽の勉強には熱心で、どんどん彼は音楽家としての才能を伸ばしていきました。12歳のとき、礼拝堂のミサのオルガンを弾く機会があり、一生懸命練習してその役目を果たし、人々を驚かせました。そして、作曲の力も腕を上げ曲を本にして出版できるようになりました。心優しい彼は、少ないけどこれでお母さんや家族を助けられると思いましたが、おとうさんは彼が有名になるほど働くなくなり、お酒ばかり飲み歩くようになってしまいました。

 でも、そんな彼を勇気付けてくれる人や助けてくれる人がいて、ウィーンに行って勉強することになりました。モーツァルトの弟子入りをしようと会いに行き、そこで認めてもらうことが出来てこれからという時に、彼のお母さんが危篤との連絡。そして、お母さんは亡くなり、残された弟2人の面倒を見なくてはいけなくなり、ウィーンでの勉強はあきらめざるを終えなくなってしまったのです。

 ベートーベンが20歳のとき、ハイドンがボンの町にやってきました。(イギリスに旅行途中)
ベートーベンは、またとない機会と思い作ったばかりの曲を持って、ハイドンの宿泊していたホテルを訪れました。ハイドンはその曲を見て、「ウィーンにいらっしゃい。私が、教えて世界一の音楽家にしてあげましょう 」と言ったそうです。その頃、すでにモーツァルトは35歳の若さでこの世を去っていました。

 ハイドンを頼ってウィーンに行きましたが、ハイドンはあまり教え方は上手ではなく、ベートーベンはハイドンに内緒で他の先生方から教えてもらい、どんどん音楽家として成長していきました。

 やっと世の中に認められた頃、耳が聞こえなくなってきました。27,28歳のころです。耳は、どんどん悪くなるばかりでしたが、彼はそのことを友達のベーゲラーにしか言っておらず、内緒にしていて欲しいと伝えていました。

 「音楽家として、もう生きる望みを失った」と、ある日彼は、遺書を書きました。その頃の彼の悲痛な叫びが「運命」という曲にこめられていると私は、思います。でも、耳が聞こえなくなった苦しみや悲しみより、彼を死んではいけないと呼び戻したのが、音楽を作ることと思った彼が作った作品が「田園」。

 その後、第九交響曲「合唱」「荘厳ミサ」を発表。

 1827年3月26日、彼は57歳で亡くなりました。

 先日、テレビを見ていたら片手のピアノ演奏家が出ていました。彼は、病気で突然半身不随になってしまい、片手が動かなくなってしまったのです。もう、演奏家としては彼も、周りの人々も思っていました。生きる希望も喜びもない日々を送っていたある日、彼は自分には片手が残されていることに気づいたのでした。そして、彼は再び演奏家として活躍しています。
風のしるし-左手のためのピアノ作品集
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